最近、イタリア語を勉強したついでに、イタリアの諸方言に関心を抱くようになった。イタリアでは『星の王子さま』の翻訳が、日本に匹敵するかあるいはそれ以上に活発に行われていて、これまでに標準イタリア語への翻訳だけでおよそ 20 種類、さらにそれとはべつに諸方言 (それをイタリア語の方言とみなすか別個の言語と呼ぶかはべつとして、とにかくイタリア語と密接な関係にあり国内で話されている言語) への訳も、やはり 20 ないし 30 種類ほどもあるようだ (ピエモンテ語、リグリア語、ヴェネト語、エミリア・ロマーニャ語、ナポリ語、シチリア語等々。これらのなかにさらにいくつもの下位方言があり、そのそれぞれに至るまでが『星の王子さま』の翻訳をもっている)。日本語にはただのひとつも方言訳がないこと (これじたい大問題だが!) と対照的である。
そんな多種多様の方言訳のなかで、今回とりあげるのはイタリア北東部の端、北・東・南の三方をスロヴェニアと接する国境の街トリエステの方言に訳された『星の王子さま』El Picio Principe である。
第一次大戦まではオーストリア゠ハンガリー帝国に所属していたトリエステという街は、イタリア語、ドイツ語、そしてスラヴ語 (スロヴェニア語やクロアチア語) が接触するコスモポリタンな都市であった。したがってトリエステ方言とはそれらすべての言語の混交した国際色豊かな言語……、という予断を抱いていたのであるが、実際に読みはじめてみると意外にもそんなことはない (この訳書がとくに注意してそうした借用語を回避しているという可能性もあるが)。
これはトリエステ方言に限らないことで、あくまで素人の個人的な印象にすぎないが、イタリアの方言訳をいくつか見比べたかぎり、北イタリアの諸方言は標準イタリア語の知識に若干の細かな点の追加・修正を加えればほとんどそのまま読めてしまう部分が多い。これに対し南イタリアの方言は字面が大きく違ったり、語彙そのものが標準語と異なっていたりすることが北よりも頻繁で、読解に困難を感じる。耳で聞いたことはないのでそちらの方面はどうかわからないが。
このブログでは Valentina Burolo e Andrea Andolina 訳 El Picio Principe (2016 年) の読書を通じて、ヴェネト語トリエステ方言の文法事項をややランダムに解説していく。そのさい標準イタリア語の初歩的な知識は仮定されることを了承いただきたい。私が用いるテクストはイタリアから取り寄せた紙の本になるが、じつは日本の Amazon でも Kindle の電子書籍版を購入することができるので、入手は容易である。したがって文章全体についてはそちらを参照いただきたい。
トリエステ方言の文法については、Nereo Zeper, Grammatica del dialetto triestino, 2015 を参照する (参考のためいちおう Amazon のリンクを貼ったが、これは Amazon からは注文できないと思う)。以下、この本の xx ページを参照するさい、たんに Zeper, xx と指示する。
では順番どおり、まずはレオン・ヴェルトへの献辞を含む序文から読んでいくことにしよう。続きへのリンク:第 1 章・第 2 章・第 3 章・第 4 章・第 5 章・第 6 章。
ai fioi「子どもたちに」――標準イタリア語と同様、前置詞と定冠詞の結合がある。ai は a + i。トリエステ方言の定冠詞はイタリア語よりも簡単で、男性は単数が el (’l) と l’、複数が i だけで、女性は単数が la と l’、複数が le である。男性単数名詞は子音で始まるなら el、母音で始まるなら l’ であって、s impura などにまつわる場合分けは生じない。’l という形はまえの語と弱い母音の連続を避ける場合で、義務的ではないようだが発音のしやすさのためしばしば生じる。女性の la と l’ も基本的には子音か母音かということだが、アクセントのある母音のまえで la aca, la una のように la を使う例外も少数ある。Cf. Zeper, 58.
fioi は fiol の複数。複数形の作りかたは Zeper, 66–68 で語尾に応じて詳細に分類されており、-ol の場合原則として -oi。ごく少数の例外において sol, soli のような -oli、また gol のように不変化の場合がある。
gaver dedicà「献げたこと」――gaver は伊 avere にあたる語だが、その不定詞のみならず、直説法現在 go, te ga, el/la ga, gavemo, gavè, i/le ga、半過去 gavevo, te gavevi, ...、未来 gaverò, te gaverà, ...、接続法現在 gabi, ...、半過去 gavessi, ...、条件法現在 gaveria, ... のごとく、分詞 avù(do) を除くすべての法と時制と人称で g- がつくのが特徴的。Zeper, 148ss.
-àr で終わる動詞を第 1 活用といい、その過去分詞は -à と -ado の両形が認められている。性数の変化は -ada, -a(d)i, -ade。また -er の第 2 活用では過去分詞 -ù(do), -uda, -u(d)i, -ude、-ìr の第 3 活用では -ì(do), -ida, -idi, -ide。
xe「〜である」――イタリア語の è にあたる、esser (伊 essere) の直説法現在 3 人称単数の活用形で、x は IPA で [z] と読む。この s の有声音を表す文字はふつうイタリア語と同じく s であるが、この xe という語でのみ x の字を使うことになっている。Zeper のとくに p. 36 の注 10。
’l meo amico che mi go「私がもっている最良の友人」――me(i)o は伊 migliore にあたる語で (Zeper, 83)、イタリア語と違い所有形容詞 mio とよく似るのでうっかり混同しないこと。
go はすでに見たように gaver の直説法現在だが、ここは最上級を修飾する関係節なので、規範的なイタリア語なら接続法 abbia で言うはずのところである (もちろん現代語では直説法 ho で言うこともかなり多いが)。しかるに Zeper の文法には統語論に関する記述がほとんどなく、かろうじて p. 172 に「トリエステ方言は接続法の使用に関してかなり保守的」云々という一方で条件法との交換可能性を注意しているだけである (いま述べたことの詳細は次の回で実例が出てくるときに改めて説明しよう)。「保守的」という言葉の印象からすればここは接続法を使いそうな場面にも思われるが、どうもそういう意味ではないのだろうか?
pol capir tuto「すべてを理解できる」――不規則動詞 poder の直説法現在は posso, te pol, el pol, podemo, podè, i pol と活用する。Zeper, 268.
la ga fame, fredo e la ga ’sai bisogno [...]「飢えて凍えており〔……〕とても必要としている」――前出の主語 ’sta persona granda を引きついでいるが、動詞の活用形 ga のまえで人称代名詞 la が 2 回とも繰りかえされている。これを非強勢形の人称代名詞 (pronome personale atono) といい、2 人称単数および 3 人称の単・複にのみあるもので、これらの人称では強勢形の主語 (3 人称では具体的な名詞も含む) か非強勢形のどちらかをかならず言い表さねばならない (Zeper, 104)。この省略できない理由は、前掲 gaver や poder の活用例に見てとれるとおり、2 単・3 単・3 複では動詞の活用形がほとんどの場合に同一につぶれてしまうことと関係があるであろう。’sai は assai「非常に」の語頭音消失 (Zeper, 48)。
ghe dedicherò ’sto libro al fioluz「この本を子どもに献げよう」――ghe は伊 gli, le にあたる 3 人称の間接補語、あるいは伊 ci, vi にあたる場所などの代名詞だが、文脈から見て al fioluz と同じことを表している。このことにつき Zeper には特段の説明は見いだされずトリエステ方言に特殊な用法ではないと思われ、標準イタリア語にもある〈a + 名詞・代名詞〉と重複する冗語的な ci, vi の用法 (坂本『現代イタリア文法』143 頁) ではないか。fioluz は既出の fiol に指小形の接尾辞 -uz (Zeper, 217) がついたもの。
xe stai「〜だった」――esser の近過去 3 複 (男性)。さきに過去分詞の男性複数形として -a(d)i と説明したが、本書は d のない -ai の形を採用しているようだ。
fazo de novo「やりなおす」――不規則動詞 far の直説法現在は fazo, te fa, el fa, fazemo, fazè, i fa。Zeper, 256.
co ’l iera muleto「少年だったときの」――接続詞 co については次の第 1 章で改めて詳しく見る (Zeper, 90s.)。定冠詞と同様、非強勢形人称代名詞の el も語頭音消失 (aferesi) をして ’l になることがある (Zeper, 48)。iera は esser の直説法半過去 3 単 (iero, te ieri, el iera, ièrimo, ieri, i iera。Zeper, 141)。
トリエステ方言の文法については、Nereo Zeper, Grammatica del dialetto triestino, 2015 を参照する (参考のためいちおう Amazon のリンクを貼ったが、これは Amazon からは注文できないと思う)。以下、この本の xx ページを参照するさい、たんに Zeper, xx と指示する。
では順番どおり、まずはレオン・ヴェルトへの献辞を含む序文から読んでいくことにしよう。続きへのリンク:第 1 章・第 2 章・第 3 章・第 4 章・第 5 章・第 6 章。
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ai fioi「子どもたちに」――標準イタリア語と同様、前置詞と定冠詞の結合がある。ai は a + i。トリエステ方言の定冠詞はイタリア語よりも簡単で、男性は単数が el (’l) と l’、複数が i だけで、女性は単数が la と l’、複数が le である。男性単数名詞は子音で始まるなら el、母音で始まるなら l’ であって、s impura などにまつわる場合分けは生じない。’l という形はまえの語と弱い母音の連続を避ける場合で、義務的ではないようだが発音のしやすさのためしばしば生じる。女性の la と l’ も基本的には子音か母音かということだが、アクセントのある母音のまえで la aca, la una のように la を使う例外も少数ある。Cf. Zeper, 58.
fioi は fiol の複数。複数形の作りかたは Zeper, 66–68 で語尾に応じて詳細に分類されており、-ol の場合原則として -oi。ごく少数の例外において sol, soli のような -oli、また gol のように不変化の場合がある。
gaver dedicà「献げたこと」――gaver は伊 avere にあたる語だが、その不定詞のみならず、直説法現在 go, te ga, el/la ga, gavemo, gavè, i/le ga、半過去 gavevo, te gavevi, ...、未来 gaverò, te gaverà, ...、接続法現在 gabi, ...、半過去 gavessi, ...、条件法現在 gaveria, ... のごとく、分詞 avù(do) を除くすべての法と時制と人称で g- がつくのが特徴的。Zeper, 148ss.
-àr で終わる動詞を第 1 活用といい、その過去分詞は -à と -ado の両形が認められている。性数の変化は -ada, -a(d)i, -ade。また -er の第 2 活用では過去分詞 -ù(do), -uda, -u(d)i, -ude、-ìr の第 3 活用では -ì(do), -ida, -idi, -ide。
xe「〜である」――イタリア語の è にあたる、esser (伊 essere) の直説法現在 3 人称単数の活用形で、x は IPA で [z] と読む。この s の有声音を表す文字はふつうイタリア語と同じく s であるが、この xe という語でのみ x の字を使うことになっている。Zeper のとくに p. 36 の注 10。
’l meo amico che mi go「私がもっている最良の友人」――me(i)o は伊 migliore にあたる語で (Zeper, 83)、イタリア語と違い所有形容詞 mio とよく似るのでうっかり混同しないこと。
go はすでに見たように gaver の直説法現在だが、ここは最上級を修飾する関係節なので、規範的なイタリア語なら接続法 abbia で言うはずのところである (もちろん現代語では直説法 ho で言うこともかなり多いが)。しかるに Zeper の文法には統語論に関する記述がほとんどなく、かろうじて p. 172 に「トリエステ方言は接続法の使用に関してかなり保守的」云々という一方で条件法との交換可能性を注意しているだけである (いま述べたことの詳細は次の回で実例が出てくるときに改めて説明しよう)。「保守的」という言葉の印象からすればここは接続法を使いそうな場面にも思われるが、どうもそういう意味ではないのだろうか?
pol capir tuto「すべてを理解できる」――不規則動詞 poder の直説法現在は posso, te pol, el pol, podemo, podè, i pol と活用する。Zeper, 268.
la ga fame, fredo e la ga ’sai bisogno [...]「飢えて凍えており〔……〕とても必要としている」――前出の主語 ’sta persona granda を引きついでいるが、動詞の活用形 ga のまえで人称代名詞 la が 2 回とも繰りかえされている。これを非強勢形の人称代名詞 (pronome personale atono) といい、2 人称単数および 3 人称の単・複にのみあるもので、これらの人称では強勢形の主語 (3 人称では具体的な名詞も含む) か非強勢形のどちらかをかならず言い表さねばならない (Zeper, 104)。この省略できない理由は、前掲 gaver や poder の活用例に見てとれるとおり、2 単・3 単・3 複では動詞の活用形がほとんどの場合に同一につぶれてしまうことと関係があるであろう。’sai は assai「非常に」の語頭音消失 (Zeper, 48)。
ghe dedicherò ’sto libro al fioluz「この本を子どもに献げよう」――ghe は伊 gli, le にあたる 3 人称の間接補語、あるいは伊 ci, vi にあたる場所などの代名詞だが、文脈から見て al fioluz と同じことを表している。このことにつき Zeper には特段の説明は見いだされずトリエステ方言に特殊な用法ではないと思われ、標準イタリア語にもある〈a + 名詞・代名詞〉と重複する冗語的な ci, vi の用法 (坂本『現代イタリア文法』143 頁) ではないか。fioluz は既出の fiol に指小形の接尾辞 -uz (Zeper, 217) がついたもの。
xe stai「〜だった」――esser の近過去 3 複 (男性)。さきに過去分詞の男性複数形として -a(d)i と説明したが、本書は d のない -ai の形を採用しているようだ。
fazo de novo「やりなおす」――不規則動詞 far の直説法現在は fazo, te fa, el fa, fazemo, fazè, i fa。Zeper, 256.
co ’l iera muleto「少年だったときの」――接続詞 co については次の第 1 章で改めて詳しく見る (Zeper, 90s.)。定冠詞と同様、非強勢形人称代名詞の el も語頭音消失 (aferesi) をして ’l になることがある (Zeper, 48)。iera は esser の直説法半過去 3 単 (iero, te ieri, el iera, ièrimo, ieri, i iera。Zeper, 141)。
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