田中利光『ラテン語初歩』(岩波書店、初版 1990 年、改訂版 2002 年) 第 52 課・第 53 課の解答例。この 2 課は旧版のみにあるもので (それゆえ以下では番号に「旧」をつけない)、改訂版では前者すなわち「LII 間接話法における副文」は完全に消えた一方、後者の「LIII 読み物」にある全 11 編の選文は、6 編だけが改訂版の第 41 課以降に分散して配され、注はすべてそのままに継承しつつ新たに全訳が付されたが、残りの 5 編はやはりまったく消えてしまった。
そこでこの記事では、第 52 課の練習問題の解答と並んで、第 53 課の選文のうち新版にないものの直訳をつけることにする。そのさい、これらの選文における注は、ここまでの初歩を終えて間もない学習者にとってはいくぶん足りないようにも思われるので、私が必要と感じたかぎりで解説を補足していく。
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LII 間接話法における副文
§453. [練習問題 100]
1. ソークラテースはつねづね言っていた、すべての人は (自分が) 十分に知っているところのことに関しては雄弁であると。〔注記のあるとおり原典はキケロー『弁論家について』1,63。ただしここでキケロはソクラテスの権威に頼ってこのことを主張しようとしているのではなくむしろ反対に、このことは真実らしく見えるが真実ではないと続く。知識が豊富であるだけでは巧みに語るには不十分だし、逆に知識が足りなくてもまことしやかに語ることはできる、要するに弁論術というものは個別分野の学識とは独立した別個の技術だという話。〕
2. ヒュパニス川のほとりでは、一日のあいだ (だけ) 生きるようなとある小動物たちが生まれる、とアリストテレースは言う。〔間に挟まっているが Aristotelēs ait が主文、残りが間接話法。ait は現在と完了が同形だが、副文中の vīvant が接続法現在なので主文も現在にとろう (もっとも主文が過去でも接続法現在が不可能なのではない。cf. §462 注 1)。なお一日というのは 24 時間ではなく明るいうちのこと。そこで朝から日暮れまで生きるようならこの動物にとってはものすごく長生きであるように、長いという尺度は見る者によって異なる、私たち人間の生も永遠に比べればずっと短いという話。〕
3. 魂は (肉体のなかに) 現にあるときにも (死んで肉体から) 去るときにも目に見えないと私は思う。
4. ネポースは書いている、アリスティーデース [アリステイデース] は追放されたほぼ 6 年後に祖国へ呼び戻されたと。
5. ポシードーニウス [ポセイドーニオス] によって書かれた [書かれてある]、パナエティウス [パナイティオス] はその著書 (義務について) を出版してから 30 年後に生き終えた (=死んだ) と。
6. キケローは書く、国家の指揮をとっていたときに国家について 6 冊の本を自分は書いたと。〔主文の言説動詞 scrībit が現在、間接話法の動詞が不定法完了 scrīpsisse で、副文がこれ以前なら接続法過去完了になるのが普通のはずだが (§451)、そうではなく完了 tenuerit なので過去における同時ととる。実際、もとが直説法未完了過去と注で説明されているのはこの同時性を示唆するためだろう。〕
7. 病気の原因が発見されるときには治療法も発見されると私は思う。
8. セネカは主張する、私たちは期待することをやめたならば恐れることを (も) やめるであろうと。
9. トルクァートゥスは自分の息子を、彼 (=息子) が命令に反して敵に対して戦ったからという理由で、殺されるように命じた、と伝えられている。〔ティトゥス・マンリウス・インペリオースス・トルクァートゥスは前 4 世紀の軍人で、この文のとおり軍規違反の息子を処刑したことで知られる。〕
10. クィーンティリアーヌスは書いている、恋する者たちは姿形について判定することができない、なんとなれば目の感覚より心が先立つからだと。
LIII 読み物
§454. パエドルス「人間の欠点」
改訂版の第 41 課末、§385 [文例 1] を参照。
§455. パエドルス「狐と葡萄」
改訂版の第 42 課末、§392 [文例 2] を参照。
§456. パエドルス「遊びと真面目」
1] 少年たちの群れのなかで、あるアッティカ人が、
2] くるみで遊んでいるアエソープスを見たとき、立ち止まって、
3] (アエソープスを) 頭がおかしい者かのように笑った。するとそれに気づくや否や、
4] 嘲られるべきであるどころかむしろ嘲る者である老人は、
5] 緩められた弓を道のまんなかに置いて、言う:
6] 「おい、賢いやつよ、俺が何をしたか解いてみろ」。
7] 人々が走り寄ってくる。彼は長いこと自分を苦しめる (=悩む) が、
8] 置かれた (=問われた) 問題のわけを理解できない。
9] とうとう降参する。そこで勝者として賢者は (言う):
10] 「いつも張りつめた (状態で) 持っておれば、おまえはすぐに弓を壊すだろう;
11] だが緩めておけば、おまえが欲するときに (弓は) 有用であろう。」
12] このように遊びが心にときどき与えられねばならないのだ、
13] (心が) 考えるためによりよい状態で君に戻ってくるように。
補足 冒頭と末尾は語順がかなり錯綜しているので、素直な散文の語順にしてみると、このようだろうか。1–2 行:Cum Atticus quīdam vīdisset Aesōpum in turbā puerōrum nucibus lūdentem, restitit ... 12–13 行:Sīc lūsūs aliquandō animō darī dēbent, ut melior ad cōgitandum tibi redeat.
3 行 dēlīrum「頭のおかしい」は対格なのでアエソープスにかかるのであり、主語のアッティカ人が狂ったように笑ったのではない (その場合はもちろん -us)。9 行 victor が主語 sophus の述語的同格。12 行 lūsūs は複数主格の主語 (単属「遊びの心」ではない)。13 行 redeat は redeō の接続法現在 3 単。この単数と、述語的同格である melior の形から、隠れている主語は男性または女性の単数である必要があり、主文の lūsūs とは違うので animus のほうと考える。
§457. カエサル『ガリア戦記』I 巻 1 章
改訂版の第 45 課末、§419 [文例 3] を参照。
§458. カエサル『ガリア戦記』V 巻 12 章
ブリタンニアの内陸部は、彼らがその島で生まれたと記憶によって伝えられていると彼ら自身が言うところの人たちによって住まわれており、沿岸部は、略奪と戦争を行うためにベルギウムから渡ってきて——この人たちはほとんどすべて、その諸部族から由来してきてここへ至ったところのその (大元の) 諸部族の名前で呼ばれている——、そして戦争が終わるとそこにとどまって畑を耕しはじめた人たちによって (住まわれている)。無限の数の人間と、ほとんどガリアのによく似たきわめて立てこんだ (=密集した) 建物、多数の家畜がいる。銅もしくは金の貨幣、または一定の重さに (量られた) 鉄の延べ棒を貨幣として用いている。白い鉛 (=錫) が内陸地域で、沿岸 (地域) では鉄が生まれるが、これ (=鉄) の量はわずかである;銅は輸入されたものを用いている。木材はガリアにおけるようなおのおのの種類がある、ブナとモミを除いて。(彼らは) 兎と雌鶏と鵞鳥を味わうべきではないと考えている;しかしこれらを趣味と楽しみのために飼っている。地勢はガリアにおけるより穏和である、寒さが穏やかであるから。
補足 現住民族のことを述べている最初の 1 文の関係代名詞の込み入りかたは甚だしく、上のように直訳するのでは読みにくいことこのうえない。まず内陸部の住人について、quōs = nātōs in insulā ということが prōditum「伝えられている」内容の対格不定法であり、これがさらに dīcunt「彼らが言っている」の内容、言っているのは ipsī (男性複数主格、厳密にはこれと同格の隠れた「彼ら」)。海岸部の住人については括弧内がややこしく、語順を整理すると cīvitātum を先行詞として関係文内で反復した ex quibus cīvitātibus が ortī の起源というから、要するに eō =ブリタンニアに至るまえの大元の出身地の部族名でそれぞれ呼ばれていたということ (eō まで「そこへ」とすると関係代名詞とごっちゃになるので、「ここへ」としたのは国原訳のアイデアを借りた)。
そのほかは比較的単純だろうか。8 行 plumbum album はこの本の語彙集では「白い鉛」としか訳せないが、諸訳はみな「錫」としている。そのあとの eius は単数なので、鉄のことだけを言っている (無頓着に「その量は少ない」と移したのでは錫と鉄の両方という誤解を生むが、これも国原訳だけははっきり「鉄の量」としている)。
邦訳は岩波文庫の近山訳、講談社学術文庫の国原訳、平凡社ライブラリーの石垣訳を参照した。ラテン語の学習において『ガリア戦記』はこのように頻繁に援用されるので、邦訳をいくつか持っておいて損はない。上手な訳ならそこで読めるので、ここでは文法関係を理解しやすいよう直訳に努め語順もなるべく堅持した。ちなみにこれらの邦訳の注釈によると、V 巻のこの箇所 (ここから 14 章まで) はカエサルの筆ではなく後世の挿入である疑いがあるというが、なぜよりによってその部分を選んだのだろうか。
§459. キケロー『善と悪の究極について』I 巻 10 章
改訂版の第 48 課末、§444 [文例 4] を参照。
§460. キケロー『トゥスクルム論叢』I 巻 (5 章) 通番 9 節
A. 悪であると私には思えます、死は。
M. 死んだ人たちにとってか、それとも、その人たちによって死なれねばならぬところの人たち (=死なねばならぬ人たち) にとってか。
A. 両方にとってです。
M. すると哀れなことだ、悪なのだから。
A. たしかに (そうです)。
M. それでは、すでに死ぬことが起こったところの人たちも、(これから) 起こるであろう人たちも、哀れだ。
A. 私にはそのように思えます。
M. それでは誰も哀れでない人はいない。
A. まったく誰もいません。
M. するとたしかに、君が首尾一貫することを欲するならば、誰であろうと (すでに) 生まれた人、または (これから) 生まれるであろう人はすべて、(ただ) 哀れであるばかりか、永遠に哀れである。というのはもし仮に君が、死なねばならぬ人たちだけを哀れであると言うとしたら、たしかに君は、生きている人たちのうちの誰をも除外しないであろう——なぜなら死なねばならぬのはすべての人であるから——。しかし悲哀の終わりが死にはあったかもしれない;だが死者たちでさえも哀れなのだから、私たちは永遠の悲哀のなかに生まれるのだ。なぜなら必然であるからだ、10 万年まえに死んだ人たちが、あるいはむしろ誰であれ生まれたすべての人たちが、哀れであることが。
A. まったくそのように私は考えています。
補足 長い M. の発言中の 4 行 esset は、主文中で過去の可能性あるいは穏やかな主張を表す接続法で、本書で説明されていないのに注がついていない。それ以外はとくに追加説明はいらないと思う。
§461. キケロー『トゥスクルム論叢』V 巻 (2 章) 通番 6 節
おお人生の導き手たる哲学よ、おお徳の女探求者にして悪徳の女追放者よ。われわれのみならず、まったく人間の生 (というもの) は、おまえがいなかったなら何でありえたであろうか。おまえは町々を生んだ、おまえは分散した人間たちを人生の共同体へ呼び集めた、おまえは彼らを互いのあいだで、まずは住居によって、次いで結婚によって、それから文字と言語の共有によって結びつけた、おまえは法律の女発明者、おまえは徳義 [道徳] と学問 [秩序・規律] の女教師であった:おまえのもとへわれわれは避難する、おまえから援助を請う、おまえにわれわれ (自身) を、以前大いに (委ねた) ように、いまや完全にまた全的に委ねる。そして善くかつおまえの命令に (従って) 過ごされた一日は、罪を犯す不死よりも尊重されるべきである。それではおまえの以外にむしろ誰の援助を使おうか、おまえ (の援助) は人生の平安をわれわれに十分授与もし、死の恐怖を取り除きもした (のだから)。
補足 「女探求者」indāgātrīx などの一連の女性を表す行為者名詞は、本書の単語集にはない indāgātor などの語尾を女性形にしたものであり (英 actor : actress などと同じ関係)、女性名詞たる哲学を女性として擬人化したものだから、もちろん日本語でふつうに訳すなら執拗に女女とつける義務はない。しかしこの件に限らず愚直な直訳というものはあくまで学習上の方便、あるいは答案として自分が隅々まで正確に理解していることを採点者にアピールするための手段として試験やレポートで有用である。日本語らしい訳文に仕立てられても細部のあやふやなところをごまかしたのでは自分のためにならない (もっともラテン語の生の文章には、正確に文法を解析できて訳せても結局なにを言っているか意味不明ということはままあるのだが、それはもう 1 つ上のレベルの話)。
2 行 nōs (注で説明されているとおり実際には ego) は構文上 vīta hominum と等位接続されているが、意味上は「われわれの (人生)」のはずなので nostra でない理由はわからない。英訳を見ても ‘not only my own life’ となっており、hominum と同格の属格 (ただし人称代名詞なので所有形容詞) であるべきところ。
私の作る解答ではその本の単語集だけを使ってできるとおりに忠実に訳すことを原則としているが、たとえば 5 行 disciplīna は本書の語彙集では「学問」としか出ていないところ、それでは通らないだろう。括弧による言いかえはたいていこの目的で表示している。
その他の点は上の直訳でもっておのずから説明されているであろうから贅言を要しない。なお本書の記載では V 巻 6 節とされているが、実際には 5 節の途中から 6 節の最初の一文にあたるようだ。
§462. アウグスティーヌス『告白』10 巻 (21 章) 通番 31 節
それではどこで、いつ私は経験しただろうか、それを思い出し・愛し・希求するような、幸福な自分の人生を。私だけではなく、(私と) 少数の者たちとともにでもなく、まったく私たち全員が幸福であることを欲する。そしてその点に関して、たしかに知っていることとして私たちは (幸福な人生を) 知っているのでないとしたら、これほどたしかな意志で (それを) 欲することはないであろう。だがこれはどういうことか。そしてもし 2 人の人に対し、彼らは軍務に服することを欲するか (どうか) が尋ねられるとしたら、彼らのうち一方が自分は欲し、他方は欲しないと答えるということは生じうるであろう:しかしもし彼らに対し、幸福であることを欲するかが尋ねられるとしたら、両者ともただちになんらのためらいなく望むと言うであろうし、幸福であらんとするためでないとしたら、ほかのことのためにあちらの者は軍務に服することを欲するのではないし、ほかのことのためにそちらの者は欲しないのでもない。
補足 3 行 omnēs は主語に同格、主語は volumus のとおり隠れている nōs である。4 行および 6 行 quaerātur ā duōbus [ab eīs] とあるのは、受動態の行為者の ab ではなくて、quaerō という動詞は尋ねる相手に ex, dē, ab のいずれかと奪格を用いるため (まぎれのない ex を使えばいいのにこれはアウグスティヌスの原文が不親切。能動ならどれでもいいが受動にしておいて ab というのは……)。7 行 nec 以下はそのまま日本語にすると回りくどいが、要するに一方が戦争に行きたがり他方がそうしたがらないのもどちらもめいめい幸福になりたくてだということ。
§463. デカルト『省察』その 2
改訂版の第 49 課末、§456 [文例 5] を参照。
§464. エウクレイデース『(幾何学) 原論』I 巻
改訂版の第 51 課末、§481 [文例 6] を参照。
ただし「公理」の訳解中、II で「等しいもの [B, C] に等しいもの [A] を加えるならば」とあるのは疑義があり、原文は aequālibus aequālia とどちらも中性複数の与格と主格なのだから、等しい 2 つのもの A = B に等しい 2 つのもの C = D が加えられるならば和も A + C = B + D でふたたび等しい、というのが正確な理解ではないのか。III も同様。I は eīdem が単数なので A だけで問題ない。
また「定理 15」の読解にあたっては、「直線の、直角の」という語義が与えられている形容詞 rēctus がしばしば単独で、男性名詞 rēctus としては「直角」、女性名詞 rēcta としては「直線」の意に用いられていることは特筆に値する。これはもちろん男性名詞 angulus と女性名詞 līnea が裏に隠れているからである。
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