vendredi 20 août 2021

ノルン語訳『星の王子さま』を読む:第 1 章

ノルン語版『星の王子さま』Litli prinsen 第 1 章の読解メモ。本編に入っても、いきなりそんなに難しい文がたくさんあるわけではない。Tutorial と Grammar に目を通していれば、あとはほとんど単語の問題である。

まずは朗報をひとつ。前回注意した esi「この」という指示代名詞の変化表が、新たに 1 マス埋まった。ボアの中身のゾウが描かれている絵のすぐ下に、tekna esar mynter (女性複数対格) という例がある。通常の名詞や形容詞と同じく、女性複数対格は主格と同形である。

この章で現れる最大の難問は、sojna「見せる;見える」という動詞に関わっている。古ノルド語・アイスランド語・フェーロー語の sýna と対応することは明白で、意味そのものに不可解なところはない。まず本章における用例を一挙に並べてみよう:
  1. Hun sojnaði kvalaraslangu, [...] (p. 9)
  2. Mynten sojndi sikkt ut. (p. 9)
  3. Hun sojndi sikkt ut: (p. 9)
  4. Eg sojnaði dem vaksnu mesterverkið [...] (p. 9)
  5. Nesta mynten min sojndi sikkt ut: (p. 10)
  6. [...], sojndi eg honon altið fyrstu tekning mina, [...] (p. 11)
すべて直説法過去形単数で現れている (1 人称と 3 人称があるが、過去ではつねに同形なのでそこは問題にしない)。いずれも弱変化の活用で、歯音接尾辞 ð または d によって過去を作っているが、なぜか 2 通りの形がある。しかしこれらは原形 (不定詞) に戻せばどちらも sojna という同じ形にならざるをえない。もし sojna が弱変化 I 類なら語幹 sojn- に続けて歯音、ここでは幹末が n だから d を使って sojndi となる。他方、弱変化 II 類ならつなぎ母音 a があって sojna- の後ろに過去接尾辞だから sojnaði となる。

ひょっとしてこれらは 2 種類の異なる動詞なのだろうか? 用例を詳しく検討してみよう。6 つの文のうち、2. と 3. と 5. は主語がそれぞれ「絵は」「それは」「私の次の絵は」と異なっているだけで、残りはまったく同じだ。sikkt は sikk「このような」の中性単数主・対格形で、ここでは副詞的に「このように」という意味で使われていると思われる。つまり「絵はこんなふうに見えた・こんな見た目だった」という文である。副詞 ut とあわさって、ここでは「見える」という自動詞的に使われている。フェーロー語で言えば sá soleiðis út、デンマーク語なら så sådan ud というところだ。

これらに対して 1. と 4. と 6. は他動詞である。1. では「それ=原始林についての本」が主語で、それが獲物を呑みこむボアの絵を「示して」いる。4. と 6. は「私」が主語で、誰々に自分の絵を「見せた」という文である。

困難を引き起こしているのは 6. だ。もし 6. がなかったら、sojndi (ut)「見えた」という自動詞と sojnaði「見せた」という他動詞があるということで話は片づく。だが 6. の文は存在し、しかもそれは 4. と平行な用法でありながら、動詞の形がそれとは異なっているのだ。4. と 6. は明らかに同じ動詞の同じ活用形であると思われるのに、形が揺らいでいる。

フランス語原文に拠ってみると、4. のほうは J’ai montré mon chef-d’œuvre「私は私の傑作を見せた」という単純な表現だが、6. はじつは素直に訳されてはいない。6. に対応する箇所の原文は、je faisais l’expérience sur elle de mon dessin numéro 1「私はその人に対して私の絵 1 号を実験した」である。だがノルン語がこのような言いかたをしているとは思えない。具体的に行った行為は絵を見せたということだから、ノルン語はやはり「見せた」と訳したのだろう。

6. だけが仲間はずれなら 6. は sojnaði の間違いだ、と結論づけたくなる誘惑に駆られるが、いったん臆断は避けて次章以降に先送りすることにしよう。活用のタイプが異なるので、もし弱変化 I 類 sojndi なら過去分詞は男・女性 sojnd, 中性 sojnt、弱変化 II 類 sojnaði なら全性で sojnað となる。また現在形は複数では同じ sojna だが、単数では語尾が -i, -er と -a, -ar というように異なってくるはずである。こうしたことに気をつけつつ、さらに用例を積み重ねていく必要がある。

sojna の話はこれくらいにして、あとは『星の王子さま』の話がわかっていれば解釈に悩む部分はほとんどない。ほんの 2, 3 文ほどそういうものがあるので検討してみよう。

2 番めの絵を描く直前の文、De skulu altið hava alt rett ut fyri dem. とある。フランス語原文では Elles ont toujours besoin d’explications.「大人たちはいつも説明が必要なのだ」。同じように主語 de は中性複数の「大人たち」であることは疑いない。続く hava alt rett ut は「すべてのことをはっきりさせる」といったところだろう。それはフェーロー語訳 Tey skulu altíð hava alt inn við skeið. やデンマーク語訳 De skal altid have alting forklaret. と見比べればわかる。どうも「説明が必要」という簡潔な仏文を北欧語では逐語訳するわけにいかず、「すべてを説明された状態にする」のような構文に訳したがるようだ。

だが末尾の fyri dem「それら・彼らのために」とはどういうことか。「自分たちのために」であれば再帰代名詞で fyri sjer でないといけないから、そうではない。この dem が指すのは主語とはべつの物や人でなければならない。かといって説明される「すべてのこと」alt は文法的には中性単数なので、これもまた候補から外れる。fyri dem、この 2 語がなければ意味は明解なのだが……。いまいちしっくり来ないが、ボアとゾウの関係のことだろうか? それ以外にこの近辺で指示できそうなものはない。

絵描きへの道をあきらめたという理由については、こう言っている:Eg havdi mist manndyrd veð tabi mynta minna numer ett og tvø, di båðar tekningarne fingu so illt veðtak. 仏語では J’avais été découragé par l’insuccès de mon dessin numéro 1 et de mon dessin numéro 2. というだけの文なので、もしコンマまでの前半がこれにぴったり対応するとすれば、di 以降はノルン語訳の補足ということになる。di はたぶん því にあたる理由の接続詞で、「2 つの絵が悪い反応 (=不評) を受けたから」といったところと思われるが、だとすればどうも前半の繰りかえしになって冗長だ。「私の絵 1 号と 2 号の tabi」(主格は tab?) というのが、かりに insuccès「不首尾、失敗」と同じでないのだとしたら正確なところどういう意味かわからない。やはり辞書がないということが大きなネックになっているのだが、Litli prinsen の訳者まえがきで予告されていた語彙集はいつ発表になるのだろうか。

最後の疑問点はいくぶんスキャンダラスだ。画家の道をあきらめたあと語り手は、フランス語原文では J’ai donc dû choisir un autre métier et j’ai appris à piloter des avions.「そこで私はべつの職業を選ばねばならず、飛行機の操縦を習得した」と言っている。2 つの文が結ばれた重文だ。ここがノルン語訳では、Eg varg di strunken at velja mjer annað atdriv, eg havdi ofta drømt um at vara fljogmann og eg lerdi di at fljuga fljogfar. という 3 文の連結になる。いささか不格好に見えるのは、最初のコンマのあとが接続詞もなしに続いていることで、この真ん中の部分、意味は「私は飛行士になることをしばしば夢見ていた」となろうが、フランス語原文にはない。

ここで注意を惹かれるのがフェーロー語訳 Eg noyddist tí at velja mær annað starv; eg hevði ofta droymt um at verið flogskipari, og eg lærdi tí at flúgva. である。第 1 文のあとはセミコロンで区切られており、単語を順番に 1 対 1 に対応づけられそうなほど酷似した 3 つの文で訳されている (verið という完了分詞になるのはフェーロー語特有の牽引だが、ここでは説明しない)。この「しばしば夢見ていた」という過去完了で語られる設定は、原作にないどころかデンマーク語やアイスランド語訳にも Woods の英訳にもなく、フェーロー語に固有の付け足しと判断される。なぜそれが一語一句同じ形でノルン語に登場するのだろうか。

このことはノルン語版がフェーロー語版からの重訳であるという疑いを提起する。そうでもなければ説明は難しいだろう。しかしこの直後、J’ai volé un peu partout dans le monde.「私はほとんど世界中を飛びまわった」という文が続くのだが、これはフェーロー語版では消えている* のにノルン語訳には復活するのだ。その点を重視するならやはり重訳ではないという方向に傾く。次の章でさらなる例を見るように、またべつのフェーロー語独自の点についてはノルン語は従っていない場合もあるのだ。ともかくいまのところはいずれとも即断しかねる。

* ちなみにこの箇所はデンマーク語版 (Asta Hoff-Jørgensen 訳、1950 年) にも欠けている。また違う機会に論じたいが、このほかにもフェーロー語版は原文からの逸脱においてデンマーク語版と奇妙な符合を示す箇所がいくつもあり、デンマーク語からの重訳であろうと私は判断している。

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