下宮忠雄・金子貞雄『古アイスランド語入門——序説・文法・テキスト・訳注・語彙』(大学書林、2006 年) 第 3 部テキスト編は、日本語で書かれた古アイスランド語の読本——あまりにも選択肢が少ない——としてはもっとも親切であるには違いないが、マイナな領域の常として、まったくの初心者が挑むには依然としていくらか飛躍がある。言語学の学生が読むにはこれでも十分なのかもしれないが、これより易しい古ノルド語 (古アイスランド語) の解説書が邦語にはないなかで、北欧神話やサガなどに関心をもつ一般の読者が好奇心から学びたいと願うとき、最初に手にとる本としてはかゆいところに手が届かないと評さざるをえない。
そこで本稿では、この読解の文章を順番に取りあげて、各単語の文法情報をひとつひとつ同定し、文法の基本を学んだ人なら誰でも正確な解釈ができるように解説を加えていく。ラテン語などでは一般的に行われている教えかたであり、同じように語形変化の著しい言語を読むさいにはつねに倣われるべきプロセスである。
文法情報は以下のとおり略記して示す:1) 名詞については「(男) 単主」、形容詞・代名詞・数詞は「男単主」のように、性・数・格をこの順番に記す。名詞の性は単語ごとに決まっていて、形容詞などの語形変化とは性質が異なるので括弧書きしている。形容詞については特記なきかぎり強変化とする。また、↑や↓という矢印があるのは、直前直後の名詞などを修飾しそれに一致した変化であることを意味する。2) 動詞について、直説法はいちいち断らない。「過 3 単」のようにあればそれは直説法の過去 3 人称単数であると理解されたい。
今回は「1. 主の祈り,ことわざ」(68 頁) を扱う。とはいえこの文章を最初に配することには疑問なしとせず、興味のない読者はむしろこれを飛ばして 2. から読んでもよいと思う。本書にも sá þú ert í hifni = qui es in caelis と注があるように、ラテン語の原文を敷き写ししたような古ノルド語的でない構文や、命令法・接続法への偏重、それからことわざという概してあまり典型的でない語順をもつ、文脈を欠く短文を読ませるといった点については、より優先すべき事項があるのではないかと思わされる。主の祈りという題材じたい、中世北欧に関心を寄せる読者が第一に興味をもつようなものではないのに、『エッダとサガの言語への案内』と改題された新版でも 1 番に置かれている。この採用はまったく比較言語学的な関心から行われたもののように見える (現に引用元は Prokosch のゲルマン語比較文法である)。
目次リンク:1. 主の祈り,ことわざ・2. アイスランド発見・3. アイスランドの植民・4. ハラルド美髪王・5. 赤毛のエリクのサガ・6. スノリのエッダ (北欧神話)・7. Brynhildr が Guðrún の夢を解く・8. 鍛冶工ヴェレント・9. 花王子と白花姫
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Mat. 6 : 9. Faðir várr, sá þú ert í hifni, helgisk nafn þitt.
faðir (男) 単主。ここでは呼格的に「父よ」。
várr ↑男単主。所有代名詞「私たちの」。
sá 男単主。指示代名詞。ラテン語の関係代名詞 qui が裏にあるが、このような用法は文法の部では説明されていない。
þú 2 単主。人称代名詞「あなたは」。
ert 現 2 単 < vera。
í 与格支配。静的な場所を表す「〜に、で」。この前置詞の選択には in caelis というラテン語原文の影響がありそう (続く 10 節の á hifni の注も参照)。
hifni (男) 単与 < himinn「天」。標準的には himni とつづるが、ここでは mn が異化によって fn になっている (cf. Gordon and Taylor, §69)。
helgisk 接・再帰・現 3 単 < helga「聖化・聖別する」。主文の動詞。ここでは受動を表す再帰態で、かつ接続法によって願望を表しており、「聖なるものとされますように」の意。
nafn (中) 単主「名前」。主文の主語。
þitt ↑中単主。所有代名詞「あなたの」。
10. Til komi þitt ríki. Verði þinn vili, svá á jǫrð sem á hifni.
til 副。次の koma とともにイディオム的に用いられ、「生じる、到来する」の意。
komi 接・現 3 単 < koma。til とあわさって、接続法なので「到来しますように」の意。
þitt ↓中単主。所有代名詞「あなたの」。
ríki (中) 単主「王国」。主語。
verði 接・現 3 単 < verða「なる、成就する」。これも願望の接続法。
þinn ↓男単主。
vili (男) 単主「意思」。主語。
svá 副「そのように」。後の sem と呼応して、「sem 以下のように」の意。
á 与格支配。「〜の上で」。
jǫrð (女) 単与 < jǫrð「地」。本書の語彙集には ‘dat. jǫrðu’ とだけ書いてあり文法の部にも説明がないが、与格には jǫrð もある (Gordon and Taylor, §87)。もしこれが対格だとしたら直後の á hifni ときれいに対照しない。
sem 接。「〜のように」。
á 与格支配。9 節では í hifni だった前置詞がここでは á になっているのは á jǫrð との対比のためだろう。じつは 9 節のほうも á とする異読があるようだ (出典の Prokosch は括弧で併記している)。
hifni (男) 単与 < himinn。
11. Gef oss í dag várt dagligt brauð.
gef 命・2 単 < gefa「与える」。命令 (依頼) の相手はもちろん神。
oss 1 複与。人称代名詞「私たちに」。
í 対格支配。期間を表す「〜に」。
dag (男) 単対 < dagr「日」。ここでは í dag で「今日」の意味で用いられている。
várt ↓中単対 < várr。
dagligt ↓中単対 < dagligr「日々の」。
brauð (中) 単対「パン」。
12. Ok fyrirlát oss várar skuldir, svá sem vér fyrirlátum várum skuldunautum.
ok 接「そして」。
fyrirlát 命・2 単 < fyrirláta「許す」。「人の与格に・物事の対格を」という構文をとる (cf. Zoëga, A Concise Dictionary of Old Icelandic)。
oss 1 複与。与格と対格が同形だが、上の理由から与格とわかる。
várar ↓女複対 < várr。
skuldir (女) 複対 < skuld「罪、債務」。
svá 副。
sem 接。svá sem の呼応は 10 節と同様。
vér 1 複主。人称代名詞「私たちが」。
fyrirlátum 現 1 複 < fyrirláta。やはり許す相手は与格。
várum ↓男複与 < várr。
skuldunautum (男) 複与 < skuldunautr「罪・債務を負う者」。対格目的語の「罪を」は繰りかえしになるので省略されている。なお下宮・金子では skuldu-nautum のようにハイフンが入っているが、これは辞書で切れ目を表示するのでもなければ不要で、新版の下宮『エッダとサガの言語への案内』では消えている。
13. Ok inn leið oss eigi í freistni. Heldr frels þú oss af illu.
ok 接。
inn 副「中へ」。前置詞句 í freistni だけで「〜の中へ」を表せているので冗長なように見えるが、これが現代語も含めたノルド語流で、頻繁に見られる。静止した地点の「中で」なら inni + í + 与格、どこどこの「上へ」なら upp + á + 対格など、さまざまなバリエーションがある。
leið 命・2 単 < leiða「導く」。後に eigi があるので否定命令「導くなかれ」。
oss 1 複対。人称代名詞「私たちを」。
eigi 副。否定辞「〜ない」。
í 対格支配。方向を表す「〜へ、の中へ」。
freistni (女) 単対「誘惑、試み」。この名詞は弱変化 īn-幹で、単数ですべての格が同じ形 freistni。しかしこの変化は本書の文法には載っておらず不親切。
heldr 副「むしろ、そうではなくて」。前文を受けて「誘惑に引き入れるのではなくて」、そのかわりに以下のことをむしろしてくださいということ。
frels 命・2 単 < frelsa「解放する」。
þú 2 単主。命令文で動詞の直後に置かれることがあるが、前文までのようになくてもよい。
oss 1 複対。
af 与格支配。「〜から」。
illu (中) 単与 < illt「悪」。形容詞 illr「悪い」を名詞として使ったもの。
ことわざ 1. Af hreinu bergi kemr hreint vatn.
af 与格支配。
hreinu ↓中単与 < hreinn「清らかな」。
bergi (中) 単与 < berg「岩」。
kemr 現 3 単 < koma。i-ウムラウトで語幹の母音が e になる。主文の動詞。
hreint ↓中単主 < hreinn。
vatn (中) 単主「水」。主文の主語。
2. Aldri er góða vísa of opt kveðin.
aldri 副「決して〜ない」。
er 現 3 単 < vera。
góða ↓女単主 < góðr「よい」。
vísa (女) 単主「詩」。主語。
of 副「あまりに」。
opt 副「しばしば」。
kveðin 過分・女単主 < kveða「言う、話す」。これは上の er とともに受動態の意味だが、やはり説明されていない。
3. Svín fór yfir Rín, kom aptr svín.
svín (中) 単主「豚」。
fór 過 3 単 < fara「行く」。
yfir 対格支配。「〜を越えて」。
Rín (女) 単対「ライン川」。
kom 過 3 単 < koma。ことわざとして引き締まった文体のために接続詞なしに 2 文が続いており、前半をあたかも従属節かのようにして定動詞 kom がこの位置にある。
aptr 副「戻って、ふたたび」。下宮『案内』のほうではなぜか語彙集から誤って消されている。
svín (中) 単主。後半の主語。
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