リメイク作品『ブリリアントダイヤモンド/シャイニングパール』の発売を前にして、『ダイヤモンド/パール』における「シンオウ神話」を読みなおすことを企図し、これから日本語版と欧米 5 言語版との翻訳比較を試みる。欧米語版は原文と並べて翻訳を提示し、原文を読めない読者にも違いを比較しやすいようなるべく過不足のない直訳を与えるよう努めたので、ぜひ今後の考察の基礎資料として利用されることを希望している。これから作中で見られる神話関連のテクストを網羅する予定であり、この記事ではミオとしょかん 3 階の上列左端の棚にある「シンオウしんわ」について扱う。
目次リンク:(1) シンオウしんわ・(2) シンオウちほうの しんわ・(3) シンオウの しんわ・(4) トバリの しんわ・(5) はじまりの はなし・(6) おそろしい しんわ・(7) シンオウ むかしばなし・(8) プレートから よみとく シンオウの はじまり・(9) ハクタイシティのポケモン像・〔ポケモン図鑑〕(10) ユクシー・(11) エムリット・(12) アグノム・(13) ディアルガ・(14) パルキア・(15) ギラティナ・(16) アルセウス
2021 年にあえて古い『DP』版のテクストを取りあげることについては、リメイクおよび『LEGENDS アルセウス』に向けた復習ということのほかに、ひょっとすればリメイク版で日本語版あるいは欧米語の翻訳テクストに変更・修正が加わる可能性があるので、それに備えた記録も兼ねていると理解されたい。もし修正が行われるとすればその点こそが「神話」の正しい理解にとって枢要だということが明白であるから、その比較のためにも旧版を知っておくことは有益だということになる。反対に修正がないならこの記事は以後もそのまま役に立つので、どちらに転んでも無駄にはならない。
ところで、用語についてはひとつ明確にしておくべきことがある。ここで括弧なしもしくは単括弧つきで「シンオウ神話」と称するのは、ゲーム中のミオとしょかん 3 階で閲覧できるテクスト、すなわち「シンオウしんわ」「シンオウちほうの しんわ」「シンオウの しんわ」「トバリの しんわ」「はじまりの はなし」「おそろしい しんわ」、ならびに「シンオウ むかしばなし」その 1 からその 3 までの計 9 編のテクストと、プレートに刻まれた 8 種類の銘文、シロナやカンナギタウンの老人などが語ってくれる話などによって描かれている神話体系のこと、要するにこれらの文献や証言から構成される、シンオウに伝わる神話の全体系のことを言う。現実世界において「ギリシア神話」や「北欧神話」などと呼ばれるものとパラレルな用法と考えてよい。
❀ 正確には「昔話」は「神話」から区別されるべきだが、ここでは便宜的に一括りにしてしまった。今回、翻訳比較の連続記事を出すにあたって別扱いにするのが面倒だという事情が直近の理由である。
しかしもっと根本的な問題として、作中で「神話」あるいは「昔話」と称せられているものが、神話学や口承文芸研究の立場から見て本当にそれらの名に値するのかは、より細密な検討を要するように思われる。直木孝次郎がいわゆる記紀神話について「神に関する話だから神話だというような単純な考え方は、学問的ではない。神話といわれるためには、いくつかの条件がいる」(『日本神話と古代国家』35 頁) と批判することは、文脈から切り離して読んでもなお有効であろう。
ポケモンにはさらに「伝説」という言葉も頻出する。これには初代以来の事情もあっていまさら整理するのも困難があるのだが、神話・伝説・昔話といったジャンルの区別が制作者たちによく理解されていないおそれがある。もっとも原理的にこれらの区別は文化によっても異なって難しく、とりわけ神話と昔話とには密接な関係があって境界が曖昧なところがあるのだが (詳しくはたとえば大林太良『神話学入門』の II 章を参照)。ともかくそれゆえ、少なくともその検討が一段落するまでは、あえて「シンオウ神話」の各話を分類しようとすることは無謀だと考えている。
〔2021 年 11 月 22 日追記〕3 つのジャンルの区別について「(16) ポケモン図鑑:アルセウス」の記事で簡単に解説しておいたので参考にされたい。
上述の意味の「シンオウ神話」に対して、ミオとしょかんの本にも——漢字かかなかは問題ではないので以下ではもっぱら漢字を使うが——「シンオウ神話」「シンオウ地方の神話」「シンオウの神話」という名称があるためにややこしい。しかしこれらは正しくは二重カギ括弧で『シンオウ神話』などと書かれるべきものであろう。「シンオウ神話」と「シンオウの神話」という別々の名のついた異なる神話があるのではなく、これらはたんに本のタイトルの違いと思われるからである (現実にもたとえばケルト神話を扱った本に『ケルト神話』『ケルトの神話』『アイルランドの神話』などさまざまな題名がありうるのと同じ)。日本語のルールでは書名は二重カギでくくることになっている。
各言語版のテクストは、以下の各国語版ポケモン wiki より引用した (閲覧した版はこの記事作成時点における最新版)。ただし改行位置などについて細かな改変をとくに断らずに加えた場合がある。
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日本語版:シンオウしんわ
おこるな ??が くるぞかなしむな ??が ちかづいてくるぞよろこぶこと たのしむことあたりまえの せいかつそれが しあわせそうすれば ??? サマのしゅくふくが あるというのが くちぐせ だ
合計 3 ヶ所ある「??」「???」にあてはまる言葉がなんであるかについては定説がない。ただし前半が感情について語っていることから、最後の「???サマ」はエムリットでないかとする説が有力であるようだ。異説として、最初の 2 回の「??」がダークライであるとし、それに対応して最後をクレセリアと解する意見もあるが、以下の欧米語版を考慮に入れると賛同できかねる。
文字数についてとくに注意すると、この「???」という表記はかならずしも 3 文字と解する必要はないかもしれないし、あるいはエムリットの昔の名称であると考えることもできる。「??」と「???」でわざわざ変えていることを重視すれば文字数には意味があると思われ、後者の解決法のほうが納得しやすい。しかしながら、そもそも本に「???」と記されていることじたいが問題含みであり、名前が現代に伝わっていないのであれば著者じしん正解の文字数など知らないことになるからその場合はあてにならない。それとも本にはちゃんと書いてあるのだが塗りつぶされているのを主人公が「???」と読んだだけかもしれない。
「というのが口癖だ」という結末部もいささか謎めいている。いったい誰の口癖なのだろうか。この全体が「神話」のエピソードなのだとすれば、これも含めて神話時代の神的存在の言動を描いているのかと思ってきたが、英語版その他はそうではなく、現代に近い時代の人々の口癖として訳している。たしかに「口癖」と言うからには言葉を話していることになるが、神話のなかでもポケモンが話す例はわずかに『トバリの神話』の 1 例しか観察されないので、人間と解するのがふつうだろう。「???サマ」を自分より上位の存在として崇めている点も、この人物 (?) が神 (?) に比べれば卑しい存在であることを示唆している。より詳しくは次の英語版へのコメントを参照。
英語版:Sinnoh Myth
Betray not your anger, lest ??? will come.Weep not with sorrow, or ??? will draw near.When joy and enjoyment come natural as the very air, that is happiness.Let such be blessed by the hand of Master ???.Those words were spoken often as customary.
怒りをあらわにするなかれ、???が来たらぬように。悲しみに涙するなかれ、さもなくば???迫り来ん。喜びと楽しみがまさしく空気のごとく自然となるとき、それが幸福なり。かくのごときが???様の手にて祝福されてあれ。これらの言葉が習慣としてしばしば語られていた。
1–2 行めの not の用いかたは文語的であって、口語ではふつう Don’t ... と言うべきところである。また 1 行めの lest もかなり堅い単語であり、これらのことから古臭い感じに訳しておいた。(ただ私見では will の存在のせいで文語調になりきれていない感じがする。lest 節は仮定法現在でただの come とするほうが高級な雰囲気が出ると思う。)
第 4 行で日本語原文の「サマ」を表すべく ??? のまえに付された Master が注目に値する。強く男性を思わせる表現であり、100 % メスであるクレセリアにあてはめるには適当と思われない。このことは以下で見るさらなる他言語訳でも確証される。
さてこの Master はどうやら大文字で人の名前のまえにつく用法で使われている。ただし「人」というのはもちろんわれわれの世界の場合であって、ポケモン世界の英語では偉いポケモンにつけていけないことはないだろう。そのような Master の用法としてまずは、Mr. (Mister) に代わる古語もしくは方言であるか、あるいは Mr. をつけるには早いような年少の男子に対して言い、「ぼっちゃん」や「若様」などと訳せるような場合かが考えられるが、いまひとつしっくりこない。「修士 (号)」と無関係であることも言うまでもない。ここはむしろ「(主に宗教的な) 師・上位者に対する敬称」ととるのがいちばんもっともらしく思われる。
❀ もしこれらでないとすればまた、神話で「人間と特定の動物の間の仲介者とみなされる超自然物」(『小学館ランダムハウス英和大辞典』) という語義も master にはあるようで、エムリットたちとディアルガ・パルキアとの関係を考えると一見意味ありげだが、このような場合に使えるかは疑わしく、他言語訳にもその反映を見ることはできない。
最終行は、日本語の「というのが口癖だ」に対応して「これらの言葉が〜」と言われており、上の 4 行がよく人々の口に上った言いまわしの引用であることを示している。つまり厳密に言えばこの行は神話そのものではなく、『シンオウ神話』という本の著者による解説文であって、この本が書かれた現代に近い時代の習慣であったということだろう。
このことを踏まえて全体を見なおしてみると、この話は現在と地続きの時代の、一般の人間が守るべき教訓を語っており、タイトルに反してむしろ神話らしくはない。「???」にあてはまる具体的な固有名詞が本来あったであろうことを考えあわせると昔話でもなく、歴史的な事実にもとづいた「伝説」というジャンルにいちばん近いようだが、できごとそのものを語ることより人々への忠告を伝えようとする比重があまりに大きく、ここだけではそもそも説話ですらないと言うべきかもしれない (この部分よりまえに、これらの教訓を引きだすような物語がついているというなら別だが)。
ドイツ語版:Sinnohs Mythologie
Lebe deine Wut nicht, damit ??? nicht erscheinen wird.Weine nicht vor Kummer, oder ??? wird näher kommen.Natürliche Freude, natürlich wie der Wind, das ist Glück.Mögen jene durch die Hand von Meister ??? geweiht sein.Diese Worte werden oft auf Glückwunschkarten geschrieben.
憤怒の生活を送ることなかれ、以て???の現ることなきように。悲痛のために涙するなかれ、さもなくば???が近づくであろう。自然なる喜び、風のごとく自然なる、それが幸福である。かのことごと (人々) が???様の手により清められますように。これらの言葉がしばしば祝いのカードに書かれる。
冒頭のように leben が目的語をとる他動詞として用いられるのは典雅な用法で、逐語訳すれば「汝の憤怒を生くることなかれ」のような言いかたになっている。
第 4 行 mögen は話し手の願望を表す接続法 I 式の 3 複。この文の主語 jene は複数形で性別が消えるせいで人とも物ともとれるが、これは次に見るフランス語版では人、イタリア語版では物、スペイン語版では「私たち」とされている。さらに動詞として「祝福する」を表すふつうの segnen ではなく、weihen「聖別する、清める」(英語の consecrate にあたる) が使われている点もあいまって容易な解釈を許さない。英語の such「そのようなこと/人?」が bless されてあるように、という文がいかに曖昧で翻訳者たちが混迷したかということを端的に示すものといえよう。
最終行は日本語はもとより欧米 5 言語のなかで比べても特異であり、口で言われるのではなく Glückwunschkarte (文字どおり「幸福を願うカード=賀状」) に「書かれる」ことになっている。しかもそれが現在形で語られている点でも独自路線を行っているが、日本語版は「口癖だ」という非過去であったからある意味先祖返りである。とにかくドイツ語版のシンオウではほかとはまったく異なる慣習が生まれているようだ。
フランス語版:Mythes de Sinnoh
Ne trahissez pas votre haine, pour ne pas précipiter la venue de ???.Chassez au loin vos sanglots, pour éviter que ??? ne s’approche.Lorsque la joie et la célébration seront pour vous des sentiments naturels, vous aurez atteint la béatitude.Ceux-là seront bénis par le Maître ???.Autrefois, on avait coutume de prononcer cette formule.
憎悪を漏らすことなかれ、???の到来を焚きつけぬために。嗚咽を遠くへ追い立てよ、???の接近を避けるために。歓喜と賛美があなたがたにとって自然な感情となるとき、至福に到達しているだろう。その人たちは???様によって祝福されるだろう。かつてはこのような決まり文句を唱える習慣があった。
1 行めで「???」を呼びこむトリガーとなる感情は、日本語を含むほかの 5 言語における「怒り、憤り」と異なって、haine「憎しみ、憎悪」という重い言葉になっている (この語は仏仏辞典 TLF では「誰かに対する深甚な反感の思いで、ときにその者の衰弱または死を願わしめるようなもの」と語釈されている)。これほどの強い感情によって招かれる「???」とは何者なのだろうか。
3 行めの描写も他言語版とは異なっている。ここでは従属節が単純未来、主節の時制は前未来に置かれている。つまり歓喜と賛美が自然なものとなるとき、「そのときにはすでに」浄福の境地に達してしまっているという表現である。「あたりまえのせいかつ/それがしあわせ」という素朴な日本語版から英訳を経由してこのフランス語に至るまで、ずいぶん遠くにきたという印象をもつ。論理的なフランス語話者の思考によればこの至福状態はどうしても前未来でなければならないようだ。
イタリア語版:Sinnoh mitologica
Non rivelate la vostra collera, per tema che venga ???.Non versate lacrime di dolore, altrimenti ??? si avvicinerà.La felicità si raggiunge quando gioia e piacere giungono naturali come l’aria.Lasciamo che tutto venga protetto dalla mano del Signore ???.Quelle parole venivano usate spesso come abitudine.
怒りをあらわにするなかれ、???が来るおそれがあるから。悲しみの涙を流すなかれ、さもなくば???が近寄るだろう。幸福は喜びと楽しみが空気のように自然に至るとき得られる。一切が???様の手で護られるままにしておこう。これらの言葉が習慣としてしばしば行われていた。
英語版に忠実な訳になっている部分がほとんどだが、第 4 行だけは大きく異なっている。この文は 1 人称複数の勧誘で始められており (これは次のスペイン語版と共通)、続く tutto は単数であるから「すべてのこと」であって「すべての人々」ではない (この点ではフランス語版と真っ向対立している)。そしてそのすべてのことが「???様」によって「保護・庇護される」ようにと言われているが、第一候補であったエムリットはこのような強力な庇護者として適格であろうか。
スペイン語版:El mito de Sinnoh
No traiciones tu ira, o llegará.No llores con pesar, o se acercará.Cuando la alegría y el gozo de vivir nos inundan, estamos ante pura felicidad.Seamos bendecidos por la mano del Maestro.Estas palabras se decían de forma habitual.
怒りを漏らすな、さもなくば来らん。悲しみに涙するな、さもなくば近づかん。生きる喜びとうれしさに満たされるとき、私たちは純粋な幸福に出会う。師の手によって祝福されようではないか。これらの言葉が習慣的に言われていた。
他言語と比べたときまっさきに気づかれる違いは「???」がどこにもないことである。たしかにもともと「???」の正体がわからないからには文章全体の情報量は変わっていないかもしれないが、「???」があることによってなにか失伝もしくは削除された単語が存在することがわかるのに対し、このスペイン語版はあたかも最初からこのような完全な文章であるかのように見えてよろしくない。
第 3 文では「生きることの」喜びという限定が加わっている点が特色である。「よろこぶこと たのしむこと/あたりまえのせいかつ」という日本語版と比べたとき、いくぶん大仰になってはいるが欧米語中で唯一「生活」の語の反映を見られる点で原文の純朴さにもっとも近い訳であると言えそうだ (フランス語版の高尚さとは好対照である)。
第 4 文では「師=???サマ」によって祝福される主語が「私たち」になっているが、この点もまた日本語版にいちばん近いと言えるのではないか。日本語ではこの一連の忠告を受けている「おまえたち」、あるいは語り手自身も含めた「私たち」というべき、語りの場に居あわせている身近な人たちが当事者だったのだから。
総括とあとがき
- 『シンオウ神話』という題だがこの部分は神話とは言いがたい。
- 「??」は怒りもしくは憎しみの発露によって呼びこまれる存在である。
- 「???=クレセリア」説は欧米 5 言語すべてによって棄却される。
- 「???=エムリット」説はイタリア語版によるといささか怪しい。
- これらの文句を記念のカードに書いてやりとりする習慣が現在もある?
最後にいまさらのように付け足すけれども、この対訳による検討が意味をもつためには、すべての翻訳版が制作サイドの意図を適切に汲んだ正統なテクストであることが必要である。今回の「シンオウしんわ」に即して言えば、たとえば「??」と「???」にあてはまる語は裏設定としてしっかり用意されており、その設定は翻訳者たちに共有されていてそれに沿った翻訳がなされていることが当然期待される。制作者じしんよくわかっていないものを他人に訳せというのは無理な相談だからだ。
ところが以上仔細に検討してきたように、なかんずく第 4 行の比較に顕著であるように、英訳 (Let such be blessed...) が残り 4 言語に引きおこした混乱を見るかぎり、はたして日本語版の制作者の意図が十全に伝わっているのかという、この根底からして揺らいでいるように見える。そうだとすれば英語版、さらにはそこから重訳された他言語版の単語選びを根拠に「神話」の内容について推論を導くことは基盤が不安定であると認めねばなるまい。
しかしながら、日本語版によってのみ考察するという試みが早くに壁にぶちあたっていることもまた事実である (そうでなければこの 15 年でもっと多数のかつ堅固な結論が出ているはずではないか)。このような桎梏を脱するために、ひとつでも新たな判断材料を提供することができれば、この翻訳はシンオウ神話研究にわずかなりと貢献できたことになるだろう。それを目的としてこのような対訳を提供するしだいである。また後日、リメイク版『ブリリアントダイヤモンド/シャイニングパール』においてよりよい (翻訳) テクストが現れた場合には、改めてそれについて検討するつもりである。
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