dimanche 12 novembre 2017

アリスの 20 にならないかけ算:4 × 5 = 12

『不思議の国のアリス』II 章には,頭がおかしくなりまともにものを思いだせなくなったアリスが次のような計算をする場面がある:
Let me see: four times five is twelve, and four times six is thirteen, and four times seven is ― oh, dear! I shall never get to twenty at that rate!
「4 × 5 は 12,4 × 6 は 13,4 × 7 は……」まで唱えたあと,この調子では永久に 20 にたどりつけない,と彼女は言っている.『アリス』の作中に数限りなく詰めこまれた,謎かけともナンセンスジョークともとれる一節の例である.‘At that rate’ という句も,ふつう「このぶんでは,こんな調子では」などと訳されるイディオムだが,‘rate’ は文字どおりには「割合,率」という意味なので「こんな増えかた (増加率) では」ととってもいいだろう.

従来,この不思議な計算には 2 通りの解決」が与えられてきた.『アリス』の注釈書として名高い Martin Gardner の The Annotated Alice で紹介されたのが普及のきっかけだと認識している.とりあえずそれを説明してみよう.

ひとつは簡単で,日本の「九九」にあたる表 (multiplication table) がこの時代のイギリスでは 9 × 9 でなく 12 × 12 まで覚えることになっていたところ,この要領で 12 まで「計算」してみれば「4 × 12 = 19」で打ち止めなので 20 にはなれないということだ.この解答を「乗算表説」と呼ぶことにしよう.この場合,幼いアリスには九九表の範囲を超えたかけ算は不可能,つまり彼女の認識には「4 × 13」などという計算は存在しないのだ,という解釈になるだろう.

もうひとつは込み入ったもので,4 × 5 = 12, 4 × 6 = 13, ... という等式をこの形のまま真にする方法である.これは Alexander L. Taylor なる人物の発案らしい.いわく,「18 進法」によれば最初の計算は正しく,次は「21 進法」では正しく,その次の 4 × 7 = 14 は「24 進法」ならば成りたつ,……というふうに記数法の底 (base) を変更するというのである.こうすると 4 × 13 (この 13 は 10 進表記) のときには「42 進法」を使うことになるから,その計算結果は 20 ではなく,(10 進法の 10 を表す文字を A とすれば) 1A である.こちらは「底の変換説」と暫定的に呼称する.

Annotated の旧版を訳した石川澄子訳 (東京図書,1980 年) では,この説明を理解できなかったためにとんでもない誤訳になっている:「4 の 13 倍は(42 進法を用いると)1 の次にどんな数字が来ても 10 を採り、20 にはならない」.これでは意味不明である.「1 の次に,なんであれ 10 を表すところの文字〔たとえば A〕が来て」というのが本当.

さて,どうも『アリス』のファンのあいだではおおむね,この後者の説明は数学的にみごとで鮮やかなすっきりした解法であるように受けとめられているらしい.著者ルイス・キャロル,その実名はチャールズ・ラトウィッジ・ドッドソンであるが,彼が数学者であり,また『アリス』の作中にも見られるとおりこのような手の込んだ理屈を好んだという事実が傍証になっているようだ.

たとえば楠本君恵 (2017)「『不思議の国のアリス』―150 年色褪せない本 その現状と魅力―」は Gardner の注釈書のこの箇所を引いた直後に,(この計算ばかりについてではないだろうが) こう結んでいる:
以前から数学者が何かありそうだと研究をしていたが,まとまって提示されたこの本の言葉遊びの解説,数学的,論理学的な考察を通しての解説は,世の大人たちを納得させ,あっと言わせた。
また稲木昭子・沖田知子『謎解き「アリス物語」―不思議の国と鏡の国へ』(PHP 新書,2010 年) の最初の章でこの問題を解説した箇所にはこうある:
52 は、42 で位が上がる 42 進法では〈1 × 42 + A〉で 1A と表記され、20 にはなりません。
だからこそ、アリスはいつまでやっても 20 にはならないと、早くも 4 × 7 の段階で予測しているといえるのです。たんなる言い間違いと見せかけて、そこに見事な仕掛けが隠されていたわけです。
ところで私はこの説明にまったく納得していないのだが,そのことは後に回すとしてまず彼女ら彼らの解説の不足点を指摘しておこう.『アリス』の解説者はたいてい児童文学や英文学が専門であって,算数が苦手なためにかどうにも理解不足でピント外れな解説になりがちである.

これは Gardner の Annotated からしてそうなのだが,底の変換説の解説にあたってなぜ彼らは4 × 12 = 19の次で止めるのだろうか?(ここで左辺が 10 進で右辺が 39 進という不注意な記法にはいちいち突っこむまい).Gardner の注を説明しなおした楠本前掲論文は,「4 × 12 = 19」の直後で「しかし,ここまでで破綻し,決して 20 になることはない,という説明である」としている.また稲木・沖田も上でご覧のとおり,1A であって 20 にはならない,「だからこそ」といきなり締めくくっている.

言っておくが,いちばん重要なのは 1A ではない.4 × 13₁₀ = 1A₄₂ では ‘20’ になれなかったというだけなら,4 × 14, 4 × 15 とずっと続けていけばひょっとしてなるかもしれないではないか? アリスはここで ‘I shall never get to twenty’ と言っているのである.それに彼女は 7 で計算をすっぱりやめたので 4 × 13 なんていちども口にしておらず,問題が発生するのが 13 のときだというのは解説者の思いこみである.それゆえ 13 のときたまたまならないのではなくて,どこまでいっても決してならない neverということを証明しなければ解答になっていない,この核心を示せていないかぎり答案として 0 点である.

このことのちゃんとした証明は簡単である.面倒な計算などいらず,3 と 1 のどちらが大きいかを知っていれば足りる.まず,規則どおりにいけば「42 進数」に引きつづき,4 × 14₁₀ = 1B の右辺では「45 進数」,4 × 15₁₀ = 1C の右辺では「48 進数」と,底が 3 ずつ増えつづける.ところで「n 進数」というのは数字を表すのに n 種類の文字があって,1 桁で n 種類の数を表現できるという記数法だ (ご存知 10 進数では 0, 1, 2, ..., 9 と 10 種類ある.「42 進数」などとなると 0, ..., 9 に加えて A, B, C, ..., Z でも足りないが,それでもとにかく 40 や 41 を 1 文字で表せる文字をどこかから用意するということ).

そして 19₃₉, 1A₄₂, 1B₄₅, 1C₄₈, ... と 1 の位が 1 つずつ増えていくあいだ (ちなみにこの間なにも「破綻」などしておらず,この列は際限なく続けられる.さきほども言ったとおり Z で終わるわけでもない),「何進数」の底のほうは 3 つずつ増える,つまり 1 の位のいわばキャパシティが 3 増えるのだから,1 ずつ増加したところで 10 の位が 2 になる「繰り上がりが起こることは永久にないのである.これで証明終了.

さて話を戻すが,この底の変換説という理屈は本当に「見事な」ものなのだろうか? 私じしん数学科を出た人間としてどうにもそうは思えないのである.本当にこんなことを数学者であるルイス・キャロルが考えたのだろうか.

「18 進」「21 進」「24 進」…….いずれもきわめて「汚い」中途半端な合成数であって,実用上の役に立たないことはもちろん数学的にも美しくはない.人間の指を根拠とする 10 進はともかくとして,2 進,3 進,16 進など,現実に使いでのある記数法の底というのはそれぞれに理由があるものである.そこをいくと「18 進」や「21 進」など,いかにも計算の帳尻あわせのためだけに作られた理屈としか思われない.

ちなみに何進法などというと慣れていない人には難しげに見えるのかもしれないが,これは結局のところ,「左辺が 4 × 5, 4 × 6, 4 × 7 と 4 ずつ増えていくあいだ,右辺の 12, 13, 14 が見かけ上 1 ずつしか増えていないことを帳尻あわせするため,足りない 3 を『十の位』の中身でひそかに増えるよう押しつけた」ということを一言で言っているだけである.

4 と 5 から 12,4 と 6 から 13,4 と 7 から 14 (?) を作る規則はもとより無限にある.そのなかでいちばん素直なものは,言うまでもなく「ただ 1 ずつ増えている」という規則だろう.それは結局のところ最初の 12 × 12 乗算表説が採用していた規則である.これと引き比べて,「最初は『18 進』とみなす,次は『21 進』とみなす,その次は……」という底の変換説のいかに不自然なことか.

これは世間的な数学者のイメージ (偏見) からすると意外かもしれないが,数学の人間はことのほかシンプルであることを好むものである.数学者はむやみに難しいことは言いださないものなのだ.たとえば大学で数学の教育を受けた人なら聞き覚えがあるかもしれないが,数学者はよく「牛刀」ということを言う.論語に由来する「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」というあれで,「おおげさな道具」というほどの意味だ.簡単な問題を解くのにやたらと高級で強力な定理や概念などを持ちだすと「それは牛刀だ」と言われる.そういうことをすると,もちろん「間違いではない」としても「美しくない」と思われてしまうのである.数学者は状況に見あった必要十分な道具立てとシンプルさを重んじる生きものである.

ここでも似たようなことで,「18 進数」などというただでさえそう一般的でも必然的でもない道具立てを唐突に持ちだすこと,それからじつは底が増えていくのだなどと言いだすことは,たとえ辻褄があっていても美しくない.そうするくらいなら,「1 ずつ増える」というこのうえなく自然な規則と当時の算数教育という歴史的文脈から示されている乗算表説のほうが,よほどすっきりしていて説得力があるのである.単純な話,これがクイズや謎解きの答えだったとしてどちらが納得しやすいのかと問うてもいい.こんなこじつけに「見事」と感じるようではちょっと謎解きのセンスは乏しいと言われねばならない.

念のため断っておくと,Gardner はあくまで紹介のため両論併記をしただけであって,2 説のどちらが優れていると判断を下しているわけではない.後者をルイス・キャロルの隠された真意であるかのようにみなし称揚しているのはべつの解説者たちである.

底の変換説にはもうひとつ重大な難点がある.それは,10 進以外の記数法において,12 を「ジュウニ」や ‘twelve’,13 を「ジュウサン」や ‘thirteen’ などとは決して読まないということである.日本語ではこれを「イチ・ニ」「イチ・サン」,英語では ‘one two’, ‘one three’ と読む.しかるにアリスのテクストは ‘twelve’, ‘thirteen’, そして ‘twenty’ とはっきり書いている.これはアリスの考えている体系が 10 進であるきわめて強力な証拠である.

もちろんこれにも底の変換説のがわから反論が不可能なわけではない.たとえば次のような弁護が可能だろう:
  1. アリスは「18 進」等々で思考していながら,その読みかただけは偶然知らなかった;
  2. アリスが「18 進」等々で計算しているという主張は,あくまでキャロルおよびそれを解釈する読者のものであって,作中人物としてのアリスはとくに根拠なく 12, 13, 20 と言って (言わされて) いる;
  3. アリスもキャロルも「18 進」等々における正しい読みかたを知っていたが,謎かけのミスリードのためにこう言わざるをえなかった.2. と 3. はある程度重複している.
最後に,私の議論にも不完全な点があることを反省しておくのがフェアだろう.まずは 150 年という時間的隔たりである.私は正直に知らないと告白するが,もしかするとルイス・キャロルの時代には「18 進」だろうがなんだろうが ‘twelve’ や ‘twenty’ と読んだかもしれない.これはなんとも調べるのが難しい.また,同じく昔の人物であるということが原因で,「18 進」や「21 進」が「汚い」という感覚を共有していないか,もっと一般に論理パズルとしてどのような答えが「美しい」かという直観に現代人との食い違いがあるかもしれない.そうだとすると底の変換説にも説得力が出てくることになる.この点に決着をつけるには,彼の時代の文脈において彼の数学的・論理的感覚を適切に評価することが必要になると思われる.

それに,底の変換説は言うまでもなく乗算表説に対して不十分さを感じたところから考案されたものだろう.この説の賛同者に対して,いや,乗算表説のほうが素直だ,といってもあまり納得はされないに違いなく,反対するならむしろ第 3 の法則を見つけだすことが正道かもしれないところ,私はそれを提示できていない.私が本稿で示しえたことはせいぜい,底の変換説の不十分な証明の補足と,乗算表説がシンプルであることには見かけ以上の価値があるという点の確認のみである.

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